幸せ
道徳が罪を隠す
この世は愛という法則で成り立ってます。
それは許す心、祈る心、活かす心です。
そして、本当の罪とは、人間の作った道徳に背くことではなく、
この宇宙を貫き偏在する、愛という法則に背くことなのです。つまり、許せず、祈れず、活かせない心、
もっといえば、相手や自分を裁く、憎む(呪う)、否定する(殺す)心こそが罪なのです。
そして、それこそが自分だけじゃなく多くの人に影響を及ぼす、本当の罪なのです。
ただ多くの場合、社会秩序としての道徳が存在することで、こうした心が起こることを防ぐことができる事実を知らなければなりません。
その一方で、この道徳によって私たちの中に、 相手や自分を裁き、憎み、否定する心が湧くことも、悟らなければなりません。なぜなら道徳に背いた相手を裁こうとする心があるからです。
問題は私たちの多くが、この道徳を守ってさえいれば間違いはなく、正しいことなのだと疑いを持たないことです。
つまり、私たちは道徳に依存するあまり、自らの力で考え感じることを放棄してしまったということ。
それこそが偽善の始まりであり、自ら考え、感じた上で答えを導き出すというプロセスを奪い去っています。
そして、よくよく知らなければなりません。このプロセスこそが、何よりも私たちの魂に気づきを与え、成長を促すのに最も大切な意識なのです。
それは許す心、祈る心、活かす心です。
そして、本当の罪とは、人間の作った道徳に背くことではなく、
この宇宙を貫き偏在する、愛という法則に背くことなのです。つまり、許せず、祈れず、活かせない心、
もっといえば、相手や自分を裁く、憎む(呪う)、否定する(殺す)心こそが罪なのです。
そして、それこそが自分だけじゃなく多くの人に影響を及ぼす、本当の罪なのです。
ただ多くの場合、社会秩序としての道徳が存在することで、こうした心が起こることを防ぐことができる事実を知らなければなりません。
その一方で、この道徳によって私たちの中に、 相手や自分を裁き、憎み、否定する心が湧くことも、悟らなければなりません。なぜなら道徳に背いた相手を裁こうとする心があるからです。
問題は私たちの多くが、この道徳を守ってさえいれば間違いはなく、正しいことなのだと疑いを持たないことです。
つまり、私たちは道徳に依存するあまり、自らの力で考え感じることを放棄してしまったということ。
それこそが偽善の始まりであり、自ら考え、感じた上で答えを導き出すというプロセスを奪い去っています。
そして、よくよく知らなければなりません。このプロセスこそが、何よりも私たちの魂に気づきを与え、成長を促すのに最も大切な意識なのです。